腹が減っては戦はできねえ。。。
深夜だよ!!!
いや深夜じゃないけど
深夜にちかいよ!!!!!
よく思うんだけど、よくよく思って口には出さないんだけど
なすかの地上絵って絶対巨人が描いたよね
オカルトだね
どうでもいいってね
自分の人生でやりたいこといっこずつ、ブログ書くときに書いてみよう
すぐ実現できそうな奴から
うーーーーーーーーーーん
オーパーツをいっこは生きてるうちに見る
最初っから突拍子もねえな
【映画】再会の街で
【評価】星4つ(星5つ中)
【あらすじ】
キャリアと愛する家族に恵まれ、誰もがうらやむ順風満帆な人生を送るニューヨークの歯科医アラン(ドン・チードル)。ある日、彼は911の飛行機事故で妻子を亡くし、消息がわからなくなっていた大学時代のルームメート、チャーリー(アダム・サンドラー)を街で見かける。元歯科医のチャーリーは、今や世捨て人のような生活を送っていて……。
【感想】※ネタバレを含みます。
個人的には、今年1番心に残った映画になるかもしれない作品。
まわりから見れば、仕事も家庭も充実しており、なんの非の打ち所もなさそうな人生を過ごしていながらも、心の中に孤独感を持ち続けている歯科医アラン(ドン・チードル)と、9月11日のテロにより家族を失い、その慰謝料により生活には困ってはいないが、心を壊し、世捨て人同然の生活を送っているチャーリー(アダム・サンドラー)の友情を描いた作品。
作品の原題は「Reign over me」、直訳すると「私に対する支配」といった題名になる。「Reign over me」は、世界的パンクバンド「Love reign over me(愛の支配)」からとっているようで、作中で何度もチャーリーがこの楽曲を口ずさむシーンがある。
下記楽曲を聴いていただければわかるかとおもうが、原曲自体も、愛を失ったとき、人がもつであろう悲痛な感情が伝わってくる。
印象的だったシーンをいくつかあげていく。
1.亡くした妻の両親に対して、チャーリーが家族を失った悲しみを吐露するシーン
このシーンは、故妻の両親vsチャーリー間の裁判後、義両親が「常に持っている。」と発言し、法廷で公開した亡き妻・子供たちの写真をチャーリーが直視できず、退廷させられた後に演じられる。
チャーリーは、「自分が家族のことを一瞬たりとも忘れられない。」といった気持ちを、写真を持ち歩くことなどではなく、「まだ街中で彼女の顔を見る。街を歩いていると、見知らぬ誰かの顔が彼女たちの顔になって目の前に現れてくる。飼っていた犬はトイプードルなのに、大型犬でさえ、それがトイプードルとして自分の目の前にうつる。僕には写真を持ち歩く必要はない。だっていまだに彼女たちが町中にいるんだ。」と、いう言葉で表現する。
今まで、家族を失った者の悲痛を表現する上で、このようなせりふは聞いたことがなかったので、とても驚いた。と、同時に、きっと彼の立場にたてば、自分も同じような苦しみに必ず会うだろうと心のそこから納得するセリフだった。
上記発言を義両親に伝える前に、チャーリーが何度も伝えようか・伝えることを諦めようか迷うシーンがあるのだが、そのシーンも彼の優しさや、恐怖、悲しみの深さを感じることができ、物語の大きなテーマを伝えるシーンとなっている。
邦題の「再会の街で」も、「友人アランとの再会」のみでなく、「家族と再会してしまう」と、いった意味もこめられているのではないかと思った。
2.映画のラストで新たな希望を感じさせるシーン
この映画では、チャーリーは完全に悲しみから抜け出すことはないが、ラストシーンでその兆しは描写されている。
物語の最後、チャーリーの部屋で、チャーリーが「あんなに美しい女はトラブルでしかない。」と、発言した女性をチャーリーがソファに座りなおすふりをしてチラチラ見るシーンが描写される。このシーンによって、視聴者は、チャーリーの回復の兆しを感じ、少しばかり暖かい気持ちで映画を見終わることができる。
というか。。。このシーンがなければただただ悲しいだけの映画となり(実際にそれが現実の人が本当に多いのだとは思うが)、チャーリーに関しても、アランの「友達を助けたい。」という願望に対しても、まるで救いがない映画となってしまうのだけども。
3.おもむろにチャーリーが娘のことをアランに語るシーン
このシーンが泣けるんですわ。。。。
精神科医とのセッションでも本音をまるで言わないチャーリー。数回目のセッションで、リヴ・タイラー演じる精神科医に
「私じゃなくてもいい。けど、誰かにあなたのことを話さないと、あなたは前に進めないわよ。」
という言葉を投げかけられるチャーリー。
チャーリーは激昂し、「もう出てもいいか?」と、精神科医の部屋を出て行く。
待合室でおもむろにアランの隣に座るチャーリー
雑談をしようとするアランをよそに、チャーリーは自分の娘と奥さんについて語り始める。。。
本当につらい時、苦しいとき、ただただ聞いてくれるだけが1番ありがたいんだよね。
初めてチャーリーが自分の心の傷と向き合うシーンなので、つられなきしてしまった。。。
心の傷は、生きている時間さえも止めてしまう。
心が壊れてしまっては、生きている世界も、死んでいるのと一緒だろう。
私も心が壊れそうだったとき、助けてくれた人がいて、その人のおかげで、今もこの世界で何かを模索できていると思う。
私も誰かの心の支えになれる日が、なれていたらいいな
それにしても、リヴ・タイラー、アルマゲドンぶりに見たな。。。。
【日常】ターミネーターの世界が現実になることについて、私が思うこと
こんな記事を発見したので、なんとなく。
ターミネーターの世界、ロボットが人間の知能を超える時代が近いらしい。
現実に、将棋・チェス・囲碁、人間の頭脳の集大成ともいえるこの3つのゲームで、人間は2016年時点ですでにAIに敗戦している。もちろん、人間がプログラム化しているので、プログラムしている人間のほうが賢いともいえるのだけど。。。
また、時折みるニュースの中で一般事務だとか、ようするに「だれでも」できる仕事は今後、どんどん機械がおこなっていくという。
都市部の一般事務の仕事を機械が行うことになれば、余った人員は地方に流れ、地方活性化(^^)なんて、少々明るそうな未来も予測できないわけではないけど、機械化がどんどん進むことに対して、私が思うこと。
「人」の在り方について。
今でこそ、お金がないと誰も生きてはいけないため、世の中にいる大半の人が仕事につき、それぞれの業務に従事しているが、人とは本来「能力で競うもの」ではなく、「ただの生き物」だと私は思っている。
人にとって大事なことは、「世の中が便利になること」や、「賢い人・有能な人だけが活躍できる社会」でなく、「この世に存在する人、ひとりひとりの心の充足感」を考えることだと思う。
そもそも、人に優越なんかない。
優越をつけているのは人間だ。
ひとりひとりが自分と同じように呼吸をし、感情をもって生きている。私は「理想の世界のあり方」は、「ひとりひとりが心穏やかに毎日を過ごせる」世界をつくることである私は考えている。
今の世の中は「便利になること」しか考えていないように思う。
「世の中の便利化」が進んで、より多くの人が生活の充足感を得られるようになれば、便利化も悪くないと思う。
でも、「能力の少ない人」と、思われてしまう人が淘汰されてしまう社会は間違っていると思う。
人はひとりひとり、生きる権利があり、それはこの世に生きている他人が剥奪できるものではない。
子供のころ、ターミネーターを見て、「みんながこの恐ろしさに気づかないと、この映画で起こっていることはいつか現実化してしまう。」と、私は本気で思っていた。
ペッパー君も、新しいテクノロジーの発明も、私はなんだかいつも心から喜べないでいた。
世の中って今の状態で十分便利じゃない?
人も本来、この世で生きている動物たちのように、「ただ生きてゆく」ために存在している生き物じゃない?
毎日畑を耕して、食べ物を作って、自分の作ったものを自分の家族と食べる。これこそが、人にとって1番大事で、幸せなことなんじゃないだろうか。少なくとも私にとってはそうだ。
最近は、この生活を好む人が増えているように感じていて、私としてはいい傾向だと思っている。
「便利になること」について、今一度みつめなおしてほしい。
「進化・便利化」と、人はいうけれど、1つの進化や便利が発明されることによって、必ず何かを失っている。
「テクノロジーを進化させる」ことより、今、この世界で生きている人一人ひとりを、思いやりながら、お互いを大事に考えながら、真心を尽くして生きる、「思いやりであふれた世界」を軸に考えることが何より重要なことだと思う。
【映画】ウォールフラワー
あらすじ
1991年、シャイで物静かな高校生チャーリー(ローガン・ラーマン)は、クラスメートたちに“壁の花”とあだ名を付けられ甘く見られていた。だが、彼の平凡な日常は、パトリック(エズラ・ミラー)とサム(エマ・ワトソン)兄妹との出会いによってすっかり様変わりする。チャーリーは初めて知る友情の素晴らしさや、初恋の胸のときめきに有頂天になっていたが……。
評価:★★★★☆(星5つ中4)
~感想~(ネタバレのため、内容を知りたくない方は読まないでください。)。
生きることと、ともに生きてゆける仲間をもつことについて深く考えることのできる映画だった。
主人公は、実の叔母に性的虐待を受けていた17歳の少年。
性的虐待を受けていた記憶自体は、彼の記憶の奥底に隠されているが、たびたび幻覚として、彼の前に現れる。
元から内気だった少年は、学校になじめずにいたが、唯一の親友をなくし、さらに行き場を失う。
1年間学校を休んだ彼に行き場はない。
勉強はできたが、いわゆる「まじめちゃん」と、学校の人には馬鹿にされる。
そんな彼がであったのが、義兄弟であるサム(エマ・ワトソン)と、パトリック(エズラ・ミラー)だった。
サムとパトリックの仲間と触れ合う中で、彼が生き生きとしていく様子が心を暖めてくれる。
逆に、サムとパトリックと離れることで、主人公がぼろぼろになっていく様子には心が痛む。
主人公に限らず、主要人物ひとりひとりの小さな心の揺らぎを丁寧に描いていく作品だった。
パトリックはゲイで、ブラッドというクラスの人気者と付き合っている(ブラッドはゲイであることを家族にも、友達にも明かしていない。)。
パトリックとブラッドはとても仲良く付き合っていたが、ある日ブラッドの家でいちゃついているところをブラッドのお父さんに目撃され、二人は引き裂かれることとなる。
ブラッドとパトリックが破局するまで、パトリックはとにかく明るく・強いキャラクターとして描かれているため、彼の憔悴した様子には見ているこちらも動揺してしまう。
私がなぜこの映画に心を惹かれたかといったら、私も学生時代(今現在もかもしれない)、自分は「はぐれ者」という認識があったからだと思う。
彼等と私で決定的に違ったことは、彼等は自分の個性を認め、他人に認められずとも強く生きていた。
主人公であるチャーリーは、パトリック達と出会うまで、自分が「はぐれ者」であることを自覚しながらも、自己肯定できず、苦しい思いをする。
その様子が、学生時代の私ととてもかぶるのだ。
そのせいか、私もサムとパトリックの気高くも美しい生き方にあこがれてしまう。
自分を肯定するためには、その基盤として、誰かの愛情が必要だ。
それが親であったり、友達であったり、人それぞれだとは思うが、「誰かに必要とされている。」という自覚なしに、「自分に自信をもつ」ということはできないのだと私は思う。
「自分は誰かに愛されている人間だ」と、自覚してはじめて人は自分に対する自信をもつのだ。
映画の中で、主人公が「なぜ、僕の好きな人は苦しむんだろう?」と医者に問う。
それに対し、「あなたは何をそんなに悲しんでいるの?」と、医者は返す。
医者の発言に対し、彼が返したことばは「違う。僕じゃない。僕の大事な人が苦しんでるんだ。」だった。
彼自体が苦しんでいるのに、彼は自分が苦しんでいると認めない。
人は優しいだけでは生きてはいけない。
人に対して同情心を強くもつことは、自分を価値のある人間だと思っていない場合、自分を傷つける行為と一緒だと思う。
優しい人が幸せになるには、まず「自分」という存在に対し、「存在してていい」という自覚を持つことが何より必要なのだ。
「なんでやさしい人が苦しむのか。」
「なんで人には仲間が必要なのか。」
思春期との時に、きっと誰もが考え、それでも生きていく中でなんとなく忘れてしまっている・薄れてしまっている疑問を改めて考えさせられる映画であったと思う。
【映画】ペイ・フォワード
今更ですけど、みましたっっっ
評価:星3.5
一言でいうと、救いのない映画でした。ハッピーエンドの映画しか見たくない!!という方にはおすすめできません。
物語のあらすじとしては、オスメント君演じる11歳の少年トレバーが、新任の先生より「何か世界を変える行動を起こせ。」という課題を与えられる。
その課題を与えられたことにより、トレバーが思いついたプロジェクトが「ペイ・フォワード」。他人から受けた厚意をその人に返すのではなく、自分の周りにいる別の人に贈っていくというもの。
そんな彼の考えたプロジェクトが、世界に小さな奇跡を起こしていく・・・。という物語。
以下はネタバレとなります(数行空けます。)。
書くよっっっっっ
このトレバー少年はなんとも家庭環境に恵まれない。父親は家を出ていき、母親はアルコール依存症気味。出て行った父親をひきずったまま、飲み屋で生計をたてる日々。トレバー少年は、この世界がくそだと思っていた。
そんなところで、ケビン・スペイシー演じるシモネット先生より「世界を変える行動を起こせ。」という課題を与えられる。
トレバーは自分が「ペイ・フォワード」する人間を3人選ぶ。
1人は麻薬依存のホームレス
1人はシモネット先生
そして、最後の1人は自分のお母さんだった。
トレバーの最初に起こした行動は何ともかわいらしく、子供らしく、「ホームレスにお金と食事を与え、社会復帰させる。」といったもの。
しかし、彼の最初のターゲットは一時的に善人としてやり直そうとするものの、また麻薬を使い、堕落してしまう(最後、トレバーの知らないところでまた立ち直る。)。
トレバーはショックを受けながらも、ノートに記載したホームレスの名前をばってんで消し、次なるターゲットに向け、努力奮闘する。
この努力がなんともかわいい。
嘘の手紙でシモネット先生を家に招いたり、ディナーの準備をし、お母さんとシモネット先生を引き寄せる。
トレバーのお母さんに対する行動を見ると、やはりどのような環境に生まれても、自分のお母さんのことはなかなか嫌うことができないのが子供であると思う。
折り合いの悪かったトレバーとお母さんであったが、トレバーの家でをきっかけに二人の仲も修復し始める。
トレバーのお母さんが、家出したトレバーに対し、涙ながらに謝るシーンはこの映画の一つのみどころであると思う。
お母さんだって普通の人間であること、間違いを犯すこと、それでも真摯に向き合えば、子供が親を見放すことはありえないこと。
言葉自体は多くないシーンだが、トレバーとお母さんが見つめあう数秒の沈黙、その後抱き合うシーンで彼等の関係性の修復を表現したことは監督の手腕であると思う。
この映画の本当に悲しいところは、トレバーは自分の願いが叶った場面を見れずに死んでしまうというところであると思う。
彼のプロジェクト「ペイ・フォワード」は実際に映画の中で成功している。
最初に失敗していたと思ったホームレスは、麻薬を断ち切り、自殺しようとしていた女性を救う。
シモネット先生と、トレバーのお母さんは、トレバーのインタビュー後、仲を取り戻す。
トレバーだけが、その事実を知らないまま死んで行ってしまう。
「うまくいかない。」という言葉に、彼の気持ちのすべてがつまっていると思う。
この映画を見て思うことは、「なぜ世界は平和にならないのだろう。」ということだ。
ペイ・フォワードのように、一人ひとりが他人を思いやり、他人に対して善い行いをし、その行いを連鎖していけば、間違いなく、今より暖かい気持ちで日々を送ることができる人は増えると思う。
それにも関わらず、人はなかなか正しいことはできない。
人は弱く、自分の気持ちが沈んでいるときは他人に優しくなどなかなかできない。
それでも自分と、自分の周りの人ができるだけ幸せな世界になってほしいと思う。
人に善い行いをしようと考え、行動する人が増えれば、ほんの少しでも世界はいい方向に動くと思う。
私はそんな世界に来てほしいし、自分が住むならそんな世界であってほしいと思う。
誰だって自分と同じように生きている。自分と同じように感情がある。
この世界は自分ひとりのものではない。
どんなに現実が残酷でも、現状が最悪でも、善くあることをあきらめてはいけないということを、私はこの映画をみて強く学んだ。